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●大切な水子供養
「あなたは水子霊と一緒に生きている」
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男女が愛し合った時に、当然のこととして、性行為というものが生まれます。成人した人間であれば、単に精神的な愛だけで留(とど)まるという』」とは困難なことであり、愛というものを突き詰めた場合に、必然的に肉体的なものも伴ってきます。そうすると、その愛の結晶として、子供を身籠るということになります。
水子供養のことについて詳しくふれ、その意義や大切さについてお話していきたいと思いますが、これらを言おうとする前に、男女の愛のあり方を考えてみる必要があると思います。
人間は本来、煩悩(ぼんのう) を持っています。そして、抑制されたなかに愛を確かめ合い、煩悩を燃焼するというところに、その素晴らしさがあります。ただ現代人を見ていると、この煩悩という、特に性というものを快楽の一手段とみて、肉体的快楽のみを追い、心の安住というところに思いをしないところに欠点があるように思われます。
人間の愛の形において、このバランスが崩(くず) れると、もう、それはすでに理想的な愛の世界を離れ、本能に面向(おもむ) くままの動物としての惨めな姿になってしまうのではないか、それは、愛の結末たる性行為から生ずる、子供をもうけるということにおいても、安易な思想が広がっているということが言えます。
そのために、子供の存在というものは、愛の結晶とみるのではなく、邪魔者とみる傾向にあります。その男女が生活するうえにおいて支障をきたす原因を作ったと考え、これを葬(ほうむ)り去るわけです。まことにこれは恐ろしいことと言わなければなりません。
かつては、親は己(おの) れを犠牲にして子を育てました。
ところが、今は、子を犠牲にして親が生きようとします。
また、現代の母親は、子供を育てるという動物的本能を失なったごとく、子供ができると、どうして育てていいかわからなくなってしまい、子供の養育を安易に放棄します。
その典型的な例が、わが子をロッカーに捨てるといった行為です。どのような理由であろうと、一旦、生命を受けた子供は、生きよう、生まれようと願っているはずです。ですから、今、男女の愛を考える時に、身勝手な思想を一掃する必要があるのではないでしょうか。
仏教では、生きとし生ける者の命を尊重する立場にたっています。たとえそれが、この世に生まれる以前のものであっても、意識が生じた瞬間から一つの命と承るわけです。子供の心身の形成は、胎教に始まるといいますが、この指摘は看過(かんか)できないものがあります。
考えてみれば、己れの存在というものは、奇跡的な存在とも言えます。何億の精子と一個の卵子が結合し、生命を発し、二百六十六日をもって(涅槃経に説く)、普通生をうけるわけです。そして、あらゆるアクシデントを避けながら、今に至っているわけです。ある子の場合は、生まれようとしても生まれることができなかったり、生まれてきてもすぐ死んでしまったり、せっかく成人しても病や事故に倒れたり、不遇な目にあっている者も数限りなくおります。
しかし、これらを避け、乗り越え、今生きているということは、その確率からいっても、奇蹟というにふさわしいことではないでしょうか。
無論、夫婦男女の間においても、やむを得ない事情があって子供を堕ろすという現実があるかもしれませんが、しかし、このことを放置しておくことは、決して、好ましいことではありません。
一人の人間として生まれてくれば、もっと親の意識は明確になるでしょうが、闇から闇に葬ってしまうので、つい、その存在を軽視し、反省も生まれてこないわけです。
しかし、そうは言いつつも「水子」の存在は「気にかかる存在」で、男は勿論、わが身をわけた女性にとっては、生涯忘れることのできない出来事です。
そして、それを放置しておくことは、ひいては、夫・子供・孫へと禍根を残すことになります。
ですから、これらの問いかけから始まって、あなたの人生の運、不運に見えない大きな影響を与えている水子の霊を正しく理解するとともに、夫・子供・孫へとつながる水子の霊障を断つことによって、明日の幸せをつかみ、たった一つのかけがえのない命の尊厳についてまでも、もう一度、考えなおしてみようという、一つの提言でもあります。
幸せをつかむ水子供養の実証「愛−もし生まれていたら」より
水子とは胎児が出産期をまたず、自然または人工的(医学的)に流産した場合を指し、現在圧倒的に多いのは中絶による水子です。やむを得ない事情があるにせよこれを放置しておくことはまことに好ましいことではありません。
一人の人間としてこの子どもたちが生まれてくれば親の意識も変わるだろうが、闇から闇へ葬ってしまうのでその存在を軽視しかえりみることもないわけである。中には何の罪悪感もなく、物でも捨てるかのようなつもりでいる人もいるので恐ろしいことである。しかしながら水子の存在は常に気にかかる存在で、父親は勿論、我が身を痛めた母親にとっては忘れることのできない出来事である。
仏教では過去、現在、未来を三世といって、すべてこのつながりの中で生きていると説く。現在自分がいるということは、遡ってみれば多くの先祖がいたということである。不幸にしてこの世に生まれなかった子供でもこのつながりの中にあるわけである。水子もいってみれば父母の肉体を借りて(託生という)命を得たということなのである。
胎内、胎外五位とは
涅槃経の一説に胎内五位、胎外五位が説かれその人間の生成過程が述べられている。解剖学や人間の生命の誕生が医学的に解明されていない時期に、これらを仏典で明らかにしたということは恐るべき洞察力といわなければならない。
胎児は二百六十六日で育つ
仏教に説かれているように、人間の命は和合をもって母体に発した瞬間からその発生をみるわけで、母体の大小には関係はない。涅槃経においては、胎児が母の体内で成長を重ね、二百六十六日をもって出生すると説かれている。
和合をもって発した生命は生まれたい生きたいと願っているわけだが、この胎児はある時は流産、死産によってこの世に生を受けないこともあるわけである。また、この世に生まれたいと願いながらも親の都合で生命の芽を摘みとられ出生の機会を得ることができないということは誠に不幸なことといわなければならない。
どのような事情があろうと、人間は生まれ生きる事に価値があるのである。自分の肉体に宿った生命を自分の都合で抹殺するのは良いことではない。水子はその理由がどうであれ、この世に生まれ得なかった小さな命のことを意味する。
因と果について
「因なくして果ある事は、事理なし」というのは釈迦尊の言葉で仏教の根本的な教えである。
あさがおの種を播けば、あさがおの芽が出て花が咲くが何も播かなければ絶対に芽は出て来ない。今何らかの結果があるということはその結果を招く原因が必ず存在する。
何かの原因があれば必ず結果がある事は誰でも理解できる因果の法則である。そしてこの因果の法則には例外はないのである。
善因(良い種)に善果(良い結果)が生ずる。
悪因(悪い種)には悪果(悪い結果)が生ずるのは当然である。
善因悪果、悪因善果は絶対にないのである。
果報とか因果応報という言葉もこれらを物語ったものである。
現在幸福な人は、過去の善因の果報が現れているだけで、不幸な人は過去の悪因の果報を受けているのである。この果報はまた、生きている一生だけに限って現れるものではない。先にも述べたように三世(過去、現在、未来)にわたるのである。すなわち我々の知ることのできない長い期間にわたって作用する法則なのである。
同時因果と異時因果
そこでこれらの因果関係を区別すれば、同時因果と異時因果とに分けられる。同時因果とは原因を起こせば結果がすぐに現れることである。水に一滴の墨をたらせば黒く染まるように、墨を落としたという原因によって水が黒くなったという結果が現れるのである。喉が渇いた時に水を飲むと、喉の渇きが止まるという結果が得られる。このような因果関係を同時因果という。
柿の種を播いたとする。しかし、すぐに柿ができるわけではない。水をやり、太陽の光を受け、土の栄養に助けられて成長し芽が出、葉が出て柿がなるわけである。種を播いてから柿がなるまで通常八年かかるといわれるように種を播いて柿がなるまで相当の時日を必要とする。山々に鬱蒼と生える大木も数百年の年月を経ているのである。千年前の蓮の種が芽を出して花が咲いたといことがあったが、これは、実に千年の年月を経ているということである。これらを異時因果という。
異時因果においては年月、時間の長短は関係なく、要は原因を生ずれば必ず結果が起きるということなのである。このように考えてくると、親の勝手な意志でこの世に生を得なかった水子という存在即ち、その原因が供養もされなければ悪因を発したことになる。同時因果、異時因果という二つの法則にあてはめれば、必ず悪果が起きるわけである。
今その影響を受けない人でも異時因果という尺度で考えれば末代、未来永却に及ぶわけである。たとえばまったく意味なくして多くの人を前にして空中で手を振ったとしよう。意味なくして手を振っても、原因を起こせば結果が起きる。意味なく手を振っても多くの人は振りむくだろうし、手の周囲の空気は乱れているはずである。このようにまったく意味のないことであっても原因を起こせば結果が様々な形で生じるのである。
ましてや水子の場合は生命である。その生命がどの様な理由であろうと、放置され顧みられることも供養されることもなく存在するということは、誰が考えても悪因である。それが故に悪果が起きるのである。
ではどすればよいか良いのか・・・・。
罪業を消す
滅罪生善という言葉がある。
これは悪行の因を滅しそれを良い方向に向ける方法のことである。
心から懺悔して仏法僧の三宝に帰依することなのである。
この事によって罪業は日光に照された霧のように跡形もなく消える。
その人は心身ともに洗いたての白布のようにきれいになることができる。これが滅罪である。
我が父を殺したアジヤセ王が、その報いで不知の病にとりつかれた時、釈尊のこの教えで救われたという有名な観無量寿経の話は滅罪と物語る代表的なものである。
人間は業行といって、身、口、意の三つによって善い事も悪い事も行うのである。
滅罪もこの三つの形に表して行う必要がある。その善事善行には読経、念仏、写経、造塔、造仏などの仏事があるが、一口でいえば仏に供養することである。
これによってよい果報を生むわけである。これが生善である。
この善根の功徳は自他ともに廻向(功徳を振りむけること)されることになり、かえりみなかった水子の霊は鎮魂し供養され救われるわけである。
それとともに親も罪を滅し善を生ずることによって果報を得るのである。
そして善根を積めば、その蓄積がめぐりめぐって善果となって自分の身に戻ってくるわけである。
水子供養の大切さを人にすすめ供養をすることは、供養のすすめによって善行をすすめた事となり、供養をした人とともに果報を受けるのである。
自分自身が善行を行うことはもちろん、人に善行をすすめることもその人にとっては善根を積むことになるわけだ。
自分の水子でなくとも供養するということ善行と積善
自分自身に水子がなくても兄弟の系列に水子があったのを両親から聞いているので供養をしたいとか、また特異な例では、他人だがあまりの不幸が続いているのを見て何とかしてあげたいという例がある。
本来なら特異な例については本人が気づくべきなのだが、神仏を信じない人であるため見るに見かねて他人が供養にみえることがある。
兄弟姉妹でも他人でも供養を躊躇している場合には、他の人が供養するのは好ましいことである。先にも述べたように善行を積むということは、どのような形でもよいわけである。
布施をする場合でも自分に力がなく物や金を布施できない時は、その布施をする心をもつこと自体が素晴らしい布施なのである。
自分が具体的な善行をしなくとも、善行を喜ぶ心が布施であるということであるから、自分以外の水子の供養であっても素晴らしい善行を積むことになり、その善行によって善果を受けるわけである。
宗派、宗旨、宗教に関係はない
水子供養の場合、宗派、宗旨、宗教に一切関係はない。
仏教の考え方は本来広大無遍のものでこだわりはない。
宗派、宗旨といえどもその源は釈尊である。
後世傑出の人が出て一宗を建てたにすぎないわけである。
仏は他の宗教だからとといって救済しないということはない。
人間等しく大慈大悲の心によって救われるのである。
水子供養ばかりでなく先祖供養、厄除け三年祈願、特別諸祈願もまた同様である。
ただ先祖供養の場合などでどうしても自分の宗派によって法要をしてもらいたい場合は、その宗派の僧侶を伴ってもらいお堂で法要を営んでもらっている。
要は水子供養とはこれらこまごまとしたことに関係なく、自分の子供に対する親の情をもって、この世に生まれなかった子供の霊を慰めるということである。
これは親の役目であり義務なのである。
この祈りの世界には人間が考える形骸的で観念的な宗派、宗旨というものは存在しないのである。
なを、水子の位牌は原則として当院で永代にわたって安置し供養することになっているが、とくに持ち帰りの希望があれば、戒名を霊名過去帳に残し、これをもって永代供養を行っている。
水子供養の心
水子の存在は古くからあった。
現在のような人工中絶がない時代でも流産死産はあったし難産で母子ともに死ぬ事もあった。そして昔の人は水子に対しても認識が深く位牌を作ったり墓を作って供養している。歴史のある家の仏壇には何々家孩子の霊という位牌がよくあるものである。
ところが近年医術の発達とともに人工中絶が一般化したために新しい形の水子が誕生することになった。
そして医学の進歩とともに人工中絶を安易に行い苦痛も伴わないところから、小さな生命の存在をモノのごとくに考えてしまい、親として子に対する愛情を失ってしまったわけである。
悲しいことであり恐ろしいことである。
しかし今これが見直され何らかの形で供養しなければならないと現代人が自覚しつつあることは誠に嬉しいことである。外国においても関心を集めている。人間の生命が何であるかという事を思い直す風潮が生まれつつある。
ところで、この水子供養を多くの人が「たたる」という感覚で受けとめ、恐ろしいことのように感じているのは遺憾である。因果関係からみれば「たたる」ということに似た現象が起きることも時々あるが、「たたる」から「たたらない」からということで供養するものではない。
水子供養は親の愛情から親の当然の役目として義務として、心から行うものである。
そして子を思う親の心が良い結果を生むのであり、またその心が今生きている子供にも、日常の生活にも、夫婦の間の心にも影響し良くなるのである。とにかく先に述べた宿命に当たるものであるから気付いた時には、直ちに正常化しておきたいものである。
たとえ子の命といえども親が所有することはできないのである。
人間の生命は地球より重いといわれるが、まさに水子供養というものは生命の尊厳に関わるテーマである。
正しい水子供養の方法 「仏様と縁を持つ」
〜この世に生まれたなら名前や骨や遺品があるはずだが、水子の多くの場合は名前も骨もない。
親すら顔も知らず、母の胸に抱かれる事もなく、父の慈愛も知らないであの世に去った存在である。
一霊一霊の戒名(お名前)を授け位牌をつくる。
そこで、水子とは元来、形のない存在であるからこれに形を与えることが必要である。存在をつくるのである。
一霊一基の位牌を作り戒名をつけ永代にわたって供養をする。位牌を作るということは霊の宿るところを作るということである。仏教においても他の宗教においても、位牌のようなものに霊が宿ると考えられている。キリスト教においても十字架の碑を建てるようなものである。
お墓はだから同じく大型位牌といえる。
塔婆も石塔も同じである。
水子の場合、俗名がなく戒名のつけようがないので、経典の中から文字を頂戴してこれを戒名として授けるのである。
お精根を入れる
そして位牌ができたら入魂し、形のなかった水子の存在を形あるものとして霊位堂にまつり、毎朝法要を行い永代にわたって供養するわけである。
位牌を作りたくない方。
事情があって位牌を作りたくないとい方もあります。
結婚していない相手との水子であったり、不倫相手であったり、多数の水子霊があったり、経済的理由であったり。
その場合は、戒名をお授けし、過去帳にて永代供養を行っております。
御仏と結縁し、わが子を導いていただく、「戒名」を授かることはとても重要なことです。
何をやってもうまくいかない、病気がちである、不幸が重なる、よく子供がケガをする。孫がおかしくなったーなど、様々な相談が持ち込まれるが、非常に多くの人に供養されていない水子があることに気がつく。
これらの人は水子の存在を顧みる心を持たない人たちであったが、話をしていくうちにこの水子の問題を理解し、驚くわけである。形無きものを形あるものとして丁寧にお供養するのである。教え切れない人がその功徳を受け、たくさんのお礼状が届いている。
さて、この現実から水子供養における親の悩みは何であるかを分析すると、平素は顧みることはなくても心のどこかにわだかまりとなって残っていたということ、そして最終的にはどこでどのような供養をしていいのかわからないということらしい。